着信音が、鳴っている。
「ん……ん? あ、あれ? わぁ、あわわ! この着信はおにいちゃん!」
すっかり暗くなった部屋の中、琴耶は慌てて手元に転がる携帯電話を取ると通話ボタンを押す。
「もしもしっ、あの、琴耶ですっ」
『あ、良かった。琴ちゃん、今どこにいるの?』
「え? おにいちゃんの家に居るよ?」
『あれ、そうなの? そうだったっけ?』
「うん。家で待っててって、鍵と卒業証書預かったから」
『卒業証書も渡してたんだ? あぁ、うん……それなら良かった。ごめんね、忘れちゃって』
「ううん、平気。えっと、バイト終わったの?」
『終わったよ。うどんで良い?』
「うど、ん?」
『晩ご飯、野菜たっぷり煮込みうどんで良い? さっきスーパーで、鶏肉グラム35円で買えたから、それも入れよう』
「うん! 待ってるから、気をつけて帰ってきてね?」
『ありがとう、張り切って帰るよ』
いつも通りの穏やかな話し声に癒されつつ、琴耶は通話を終わらせた。
「…………おにいちゃんって、言っちゃった……」
寛志も「琴ちゃん」と呼んでいたから、まぁ大丈夫だと自分に言い聞かせ、重くなる気持ちを払拭する。
立ち上がって伸びをし、電気をつけてその光に目を慣らした。
「んっと、おにいちゃんが帰ってくる前に机の準備でもしておこうかな」
狭いワンルームの部屋の真ん中に、折りたたみの机を引っ張り出して準備をする。
琴耶は自分の荷物から、ランチョンマットとコースターを2枚ずつ取り出した。
引っ越しをしてから、ここへ通うことにもすっかり慣れてしまっていた。宿泊は極端に少ないが、可能な限りの時間を過ごしている。その間に、二人でいる時に必要な物を琴耶なりに準備してくるようになったのだ。
寛志は、完全に琴耶の趣味に走った小物にも文句は言わない。ただ、必ず持って帰るように言う。
「琴ちゃんのモノだって忘れちゃったら、すぐ小銭に替えちゃうから」
申し訳なさそうに笑った寛志の表情が忘れられず、琴耶は言いつけ通りに持ち帰りをきちんとこなした。
「うーん……どっちをおにいちゃんのにしようかな?」
どちらのランチョンマットを寛志用にするかと悩んでいると、入り口のドアがノックされる。
「はーい?」
玄関へ移動して、覗き穴から外にいる人物を確認して鍵を開ける。その流れでドアノブを回し、扉を開いた。
「お帰りなさい! 凄く、早かったね」
「うん。全速で走ったから」
(そりゃあ、早いや……)
扉を後ろ手に閉めた寛志は、数秒の間、琴耶を見下ろした。
だが、真っ直ぐに見上げてくる琴耶の視線に、すぐ表情が和らぐ。
「琴ちゃん」
琴耶は改まったように呼ばれて、小首を傾げた。
(どうしたんだろ、おにいちゃん……ちょっと、様子が違う……?)
今日一日の出来事だけで、いつもと違う要因が思い浮かんでくる琴耶。
色々考えると、落ち着いていた困惑が盛り上がってきて、琴耶は変な顔にならないようにと微笑を浮かべた。
「ただいま」
「うん。おか、ぇ……んぎゅ」
靴すら脱がず、寛志は目の前の琴耶を深く包容する。
温かい寛志の身体に包み込まれ、どぎまぎしている琴耶の頭を、寛志の大きな手がわしわしと撫で始めた。
「お、おにいちゃん?」
「うん、よしよし」
返答になっていない相槌を返して、寛志はさらに琴耶の頭を撫で続ける。
(……ぼ、僕もキャンディちゃん?)
「琴ちゃん、シャンプー変えた? 良い匂いがする」
昼間、寛志がはじめの頭を撫でていた時を思い出した琴耶だったが、嬉しそうな寛志の声にホッとした。
(良かった、キャンディちゃんじゃなかった)
「この匂い、琴ちゃんに合ってるね」
「琴成が買ってくれたシャンプー、使ってみたんだ」
「琴……? えーと、うん、そっくり君」
見分けがつくのに、どうしても琴成の名前もうろ覚えな寛志。弟だと言ってもダメなようで、寛志はようやく「そっくり君」という言葉を編み出した。
琴成は、琴耶の大切な人だから寛大であろうとしているのか、寛志に「そっくり君」と呼ばれても可愛らしく笑っている。
「あの子も琴ちゃんのこと、大好きだもんね? でも、俺はもっと大好きだよ」
かなりベタな言葉だったが、寛志の優しい声に琴耶はそれだけで動悸が早くなった。
「あの、ね、おにいちゃんからのプレゼントは、いつでも受付中……なんちゃって、えへ」
もぞもぞと寛志の胸に埋もれた顔を上げ、琴耶は照れた表情で笑顔を作る。
見上げた寛志の表情は、一瞬の真顔の後に穏やかになった。
「うん」
寛志の手が、改めて琴耶の頭を撫でる。
(やっぱり……気になる……おにいちゃん、何か考え事してる)
もしかして実はプレゼントがあったりして、と都合良く考えながらも、とりあえず玄関口からの移動を試みた。
自分から動かなければ、いつまでも寛志はこの場所で琴耶を抱きしめている気がしたのだ。
「こっちは僕が準備を始めておくから、おにいちゃんは着替えてきて?」
琴耶は、寛志の手に握られたままのエコバックを半ば奪うように持つと、キッチンの方向へ身体を向ける。
「ああ、そうするよ」
琴耶の笑顔に合わせるように笑った寛志は、ようやく靴を脱いだ。
「……」
「な、何?」
「そうだね、色々とね」
目が合うとすぐに微笑んでしまって消してしまうが、寛志のまなざしがいつもよりも真剣な気がする。
(おにいちゃん……)
寛志自ら掲げた卒業の目標が、そんな表情をさせるのだろうかと思うと、琴耶の胸には甘いものが広がった。
(気になるけど……こっちから聞くのって、おかしいよね……?)
琴耶の勘違いかもしれないし、自分が過剰に期待して反応しているだけかもしれないと思うと、なかなか踏み出し難い。
「僕、野菜洗い始めておくね!」
「うん。お願いするよ」
狭いワンルームの玄関で、一旦解散。
寛志は奥で着替えを始めて、琴耶はキッチンで寛志が買ってきた食べ物をエコバックから出し始めた。
聴覚で寛志の着替えを捉えながら、寛志が買い物をしてきた商品をシンクに広げていく。
「おにいちゃん、にんじんは……ぬにゃああっ?! おおおおおにいちゃん、ふっ服は?!」
「え?」
「裸の上から、エプロンつけてる、よ?」
「あれ、あ、本当だ。はは、服を着るの忘れてた。ごめんごめん、ちょっと気が早いよね?」
(気が早いとかの問題じゃなくて……おにいちゃん、いくらなんでも気が散りすぎだよ!)
上半身裸体の上にエプロンをつければ、いくら寛志でも気がつくだろう。
エプロンを剥ぎ取ってベッドの上に広げたシャツを掴む寛志の様を見つめ、琴耶はとうとう聞いてしまった。
「ねぇ、おにいちゃん……さっきから、様子が変だよ?」
「そうかな?」
「何か……考えてることが、あるの?」
数瞬、沈黙が落ちる。
その間に見た、寛志の真摯な視線に琴耶はドキッとする。
「あるよ。でも、まだ我慢する」
サラリと言った寛志は、「?」と怪訝に眉を寄せた琴耶にウィンクして見せた。
「今は料理に集中しよう。色々考えていると、美味しいご飯が作れないから」
「う、うん。そうだね」
「腹も良い具合に減ってきたことだし、巻きでいくよ、琴ちゃん!」
物忘れの激しい寛志だが、恐ろしく効率良く調理してしまう。一秒も無駄な時間を作らずに作業を進めるその脇で、琴耶はいつものように少しだけしか手伝うことがなかった。
寛志はうどんの出来に大満足だったようで、野菜てんこ盛りのうどんを食べながら始終機嫌が良い。
そんな寛志を見て、琴耶もまた幸せ一杯で大ボリュームのうどんの消費に勤しんだ。
「ごちそうさま」
先に食べ終わった寛志は、琴耶を嬉しそうに眺め始める。
(た、食べにくい……)
身を乗り出して琴耶を見つめる寛志に、うどんからの熱ではない熱に琴耶の頬が熱くなった。
そんな琴耶に、追い討ちをかけるような言葉が投げられた。
「琴耶」
「ん、へっ?」
咄嗟に顔を上げた琴耶の目の前、寛志がいつもはあまり見せない得意そうな笑顔を浮かべる。
子どもっぽい表情よりも、発せられた言葉に琴耶は硬直した。
「こーとーや」
「は……はい……?」
「琴耶」
「ど、どうしたの、おにいちゃん」
「ちゃんと覚えたよ。琴ちゃんの名前」
普通の人なら「だから何だ」という内容だったが、琴耶は驚きのあまり箸を取り落としてしまった。
「本当に?!」
「伊崎と勉強してる時に、キャンディちゃん、じゃなくて……えーと、やな……何とか君がずーっと繰り返してくれたんだ」
はじめの名前を惜しいところまで口にした寛志は、照れくさそうに頭をかいた。
「凄いよおにいちゃん!」
「伊崎には、内緒だよ。あの子が言い出してくれたことだけど、伊崎が知ったら拗ねるから」
「うん、うんっ」
琴耶が落とした箸を拾い、それを琴耶に渡した寛志。
そして、箸を握り締めたままで見つめ返す琴耶へ、柔らかいまなざしを向ける。
「俺はもう、お世話係じゃないからね」
「……え?」
一瞬、琴耶の心臓が何かに掴まれたような感覚に陥った。
表情を強張らせてしまった琴耶とは対象に、寛志はあくまでも優しい表情を見せる。
「ご飯食べちゃって。それから話をしよう」
きれいに片付いた折りたたみのテーブルを挟んで、今までにない雰囲気が漂っていた。
緊張に正座をして固まっている琴耶は、チラ、と寛志を盗み見た。寛志はリラックスした体勢で琴耶を眺めていたが、話し始める気配はない。
(うぅ、仕方ない。僕から……!)
生殺しのような緊張状態から脱出するためにも、琴耶は意を決して質問をしてみた。
「ぁ、ぅ……えっと、は、話って、何?」
「え? …………ああ、話。そうだ、俺が話をしようって言ったんだよね。あはは」
ここまでは、いつもの寛志だ。
琴耶は、記憶を辿るように天井を見た寛志に注目する。
「卒業できたら、お世話係も卒業しようって思ったんだ」
それはいつのタイミングだったのだろうか。寛志曰く、久貴とはじめに勉強を付き合ってもらっている時から琴耶の名前を覚えようと始めた。
(じゃあ、それよりも前に……? 仙道や柳君が言ってた朝礼事件って、いつの話だったんだろ)
「今の俺は、琴ちゃんのお世話係じゃなくて、恋人でいたいから」
「!」
「だから、琴ちゃんって呼ぶのも止めようって」
優しいながらも、しっかりとした意志の強さを感じる。「他人の名前は、覚えられなくて当たり前」である寛志が、どんな想いを抱いて琴耶の名前を覚えることに努力したのかと思えば、琴耶の胸の中は熱い感情で満たされた。
「おにいちゃん……」
「それから琴ちゃん、じゃない、琴耶にひとつお願いがあるんだ」
わざわざ琴耶を呼び直し、寛志はにっこりと笑った。
「俺のこと、おにいちゃんって呼ぶのを止めて欲しいな」
何となく、そうではないかと思っていた琴耶の予想が当たった。
想定内、といえば聞こえの良い予想だからこそ、琴耶は狼狽せずに頷くことができる。けれど、気持ちは少し重い。
「う……ん、そうだね……僕も、今日ちょっと考えてた」
「本当? 良かった!」
「あ、でも。でもね、何て呼べば良いのか分からなくて」
「何でも良いよ。おにいちゃんじゃなければ」
あっさりと返してくれるが、その「おにいちゃん」以外が思いつかないのだ。琴耶は無意識に、渋い表情を作ってしまう。
「難しいかな?」
「じゃあ、参考にするから……おにいちゃんは、今まで何て呼ばれてたのか教えて?」
「普通に鷲尾、が殆どじゃないかな。あと寛志だろ? それから助っ人とかバイトの鬼、えーと」
「おにいちゃん、僕にバイトの鬼って呼ばれて嬉しい?」
「あ、それは嫌だな。あははは」
屈託のない笑いが起こって、寛志はポン、と手を打った。
「小学の時は「ひろ」って言うヤツが多かった、かな? ひろってどう?」
「どうって聞かれても……じゃあそれでって訳にはいかないよ」
ますます渋面になっていく琴耶に、寛志はさらに身を乗り出して優しい微笑を浮かべる。
「ね、琴ちゃんは俺に琴耶って呼ばれてどんな気分?」
「素直に嬉しい」
「良かった。でさ、俺も嬉しくなりたいなって思うのはダメ?」
(分かってるよ、そんなの。僕だって、おにいちゃんが嬉しいって思える呼び方したいよ)
膝の上の両拳に、ギュッと力が入った。
(だけど、思いつかないし)
はじめの「久貴さん」にも琴成の「バカ臣」にも、しっかり愛しいと思う気持ちが込められている。
久貴の「はじめ」には真っ直ぐな心があって、滅多に聞かないが基臣の「なり」には特別な包容感がある。
そして、寛志の「琴耶」にはこれからもずっと、一緒にい続けたい強い想いが。
(僕だっておにいちゃんのこと、大切に想ってる。なのに……どうして、出てこないんだろ)
焦る気持ちばかりが前に出てきて、琴耶はそんな自分が情けなくなってきた。そう思うと、いっぱいいっぱいの感情から色々な想いがごちゃ混ぜになった涙が溢れてくる。
「……っ」
不意に涙を見せまいと下を向いた琴耶の目元を、透明な雫がポタポタッと落下した。
「琴ちゃん?」
「ぅ、うぐ……ごめんなさい、何か、自分がっ……自分が、情けなくて、……っ、うぅ」
嬉しくて幸せな気持ちを寛志に共有させることのできない自分に、心が痛く哀しくて、琴耶の感情は深く塞ぎこんでしまった。
どうにもならなくて、涙がどんどん湧いてくる。手の甲で拭いても、すぐにポタポタ頬を伝って落ちていく。
「情けない?」
「僕、僕はぁ、おにいちゃんのこと大好きで、グス、誰よりも、特別……だと、思って……」
口に出して言うと、ますます情けなさが加速した。
何度も涙を拭ってはしゃくり上げ、何とか本格的には泣かないようにと頑張ってみる。
「ヒッ、ヒック……グス、本当に、本当は、おにいちゃんのこと、もっとっ……ヒック、ふ、ぅっ」
「琴ちゃん……急がなくっても良いよ?」
(そんなことない。おにいちゃんは早く「おにいちゃん」以外で呼んで欲しいって、思ってる)
せっかく言ってくれた寛志の言葉も、琴耶は後ろ向きに捉えてしまって胸が痛くなる。
(どうして、何で、僕はこんな時に上手くできないんだろ)
「琴ちゃん?」
寛志の声に、反射的に頭を強く振った。
「う、うぅっ、ヒック、僕……おにいちゃんてしか呼べなくて、グズッ、僕だって、おにいちゃんのこと……っ、ふえぇ」
「ああ……」
泣き出してしまった琴耶の頭を、寛志の片手が慌てずにゆっくり撫でる。
「泣かないで、琴ちゃん。今じゃなくても平気だから」
その掌があまりにも温かくて、琴耶は頭の中を真っ白になってしまう。
後は、堰を切った涙が緩やかになるまでの間、琴耶は寛志に頭を撫でられながら泣きじゃくった。
「…………うっく、ん、ズッ……グズ……んっ、ふ、ぅ」
「落ち着いてきた?」
「う……ん、ごめんなさい……ヒック」
「俺は、今度でも良いんだよ?」
「それじゃ、僕が……やだ……っ、ズズッ」
「……琴ちゃんって、こういう時は頑固だよね」
「えっ?」
「困って泣くくせに、意地でもその場で解決しようとするの。お世話係の時に、ずいぶん手を焼いたよ?」
「……覚え、てるの?」
「琴ちゃんのことだからかな? ふとした拍子に思い出すんだ」
驚きに顔を上げた琴耶の涙を指で拭った寛志は、「あ」と小さく声を上げて困り顔で笑った。
「琴ちゃん、じゃなくて、琴耶。ね?」
「……、んック」
落ち込んでいてはダメだ。
寛志の優しい表情を見つめて、琴耶はゴシゴシと涙を拭いた。
凹んだとしても、そんなことを寛志に訴えて何の意味があるのか。寛志が望んでいるのは、泣いている自分ではなくて、「おにいちゃん」以外で寛志を呼ぶ自分だ。
他人のことが気になって、頭の中でまとまらずパニックになってしまったが、深呼吸を繰り返すと落ち着いてきた。
「おにいちゃん、少しだけ待って」
「無理に」
「無理じゃないからっ」
気を遣ってくれる寛志の言葉を珍しく遮り、琴耶は頭を左右に振る。
「……ほら、そうやって今すぐ解決しようとする。ウサギの貯金箱をくれた時も、俺が違うって言う前に「あげる」って言ったんだよ? その直前まで、貯金箱を握ってワーワー泣いて……今とそっくり」
「そっ、そんなことないよ」
琴耶は、自分が覚えていないことを寛志が思い出していることに奇跡を見る気分だ。そして、幼少期にも同じようなことをして、寛志を困らせていたことに狼狽する。
(あうぅ、僕ってもしかして精神的に成長してない? は、恥ずかしいなぁ)
あまり泣かないほうだと思っていたのに、寛志の口振りではずいぶん泣いたらしい。手を焼くほどの号泣振りに、寛志はいつもどう対応していたのだろう。
「あの頃は抱っこしたらご機嫌になってたけど、この部屋の中じゃ、抱っこは無理だね」
「うを、抱っこ……じゃなくて! 僕は今っ、ここでっ、おにいちゃんのことを、おにいちゃん以外で呼ぶんだからね!」
逸れてしまった話題を気合で戻した琴耶は、鼻息荒く拳を握った。
「ははは、分かったよ。じゃあ、俺は待ってれば良い?」
「そうして、ください」
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