寛志の自宅には、未だに小銭の山がそこかしこに積んである。
琴耶と再会し、自分がなぜ小銭を集め続けていたのか判明したはずだ。それなのに、未だに寛志はコツコツと小銭を集めて続けている。
琴耶は、訪れる度に確実に増えている小銭の山を見渡し、収納棚にみっちりと積まれている500円玉の数を数え、生半可なタンス貯金よりも多い金額に唖然とした。
(小銭集め、趣味になってるのかな。小銭を集めていた目的を、すでに忘れている……とか、ね?)
その線は有りだろうと考えつつも、寛志に対して少し失礼なことを考えてしまったと反省する。
(おにいちゃんの行動って、まだまだ不思議なんだよね)
未だに理解できない寛志の思考回路に、琴耶は結構振り回されている。けれども、そのすべてが琴耶の幸せになってしまうから問題はない。琴耶と一緒にいることを寛志も楽しんでいるようだし、琴耶自身も常に嬉しさで一杯だ。
見慣れた部屋の隅々まで見渡し、ウロつき、ようやく琴耶はベッド脇に正座をする。
「この部屋、本当に日当たり良いな」
ポカポカとした昼下がりの陽光が、良い角度で窓から流れ込んでくる。
「…………」
ひとり和みつつ窓の外を数分見つめた琴耶は、やることを失った事実を目の当たりにした。キレイに整頓された部屋は、静まり返っている。
(た……たかが3時間、されど3時間……)
何度も時計を見て、その度に数分しか経っていなくてガックリする。あいにく、手持ちの小説文庫を読み終わってしまった状態で、時間を潰せる作業が「小銭の勘定」しかないシンプルな部屋の中で、琴耶はとうとう、携帯電話を取り出した。
メールにしようか迷ったが、ボタンを押す音が響く部屋の有様はきっと寂しいと思い通話することにする。
相手は、今朝会ってきた琴成だ。
あれからどうなったのか、兄としては気がかりなのである。
(そんなに心配するようなことじゃないかもしれないけど、万が一ってこともあるし)
誰に対する言い訳か、琴耶は琴成への電話にそう理由をつけた。
「もしもし、琴成?」
ワンコール半で出た相手に、琴耶はパッと明るい表情を浮かべる。
『どうしたの? もうこっちに帰ってくるの?』
「あ、えっと……今は、まだおにいちゃんの家、だよ」
『えーっ。何それ、惚気? 幾らなんでもそれはないよ兄貴ぃ』
「おにいちゃんの家だけど、留守番中……」
怒っているというよりは呆れている風な琴成へ、琴耶は尻すぼみな声を出した。
『へぇ? 暇なの? 俺が、電話でエッチなことしてあげよっか?』
「こっこら! お兄ちゃんになんてことをっ」
『あっははは! 兄貴ってば、これくらいのことはジョークで返してよー。もう慣れたでしょ?』
「慣れてないよーだ」
『本当〜? ま、良いや。それで、どうして留守番なの?』
「話があるからって、おにいちゃんが」
『ふぅん。まさか一緒に住もう、とか言い出すんじゃないよね?』
「えっ…………いや、そ、それは……」
琴成の鋭さに絶句した琴耶は、「違う」とも言えずにもごもごと言葉を濁した。
『なーにー? 怪しいなぁ。何かあったんだ? そうでしょ?』
「う、うん」
『何があったの?』
「あの、柳君に聞いたんだけど……おにいちゃん、卒業できなかったら僕と会わないって朝礼で言ったんだって」
『それで?』
「え、う、あの……」
寛志が朝礼でマイクを握り、ハウリングを気にせずに絶叫する様を勝手に思い描いた琴耶は、カーッと体温が上昇するのを感じる。掌にじんわりと汗が滲み、頬が熱い。
琴耶が言い澱むことは想定済みなのか、琴成は「え、と、あの……」ともじもじしている琴耶の耳元に、余裕の笑い声を響かせた。小悪魔的な笑いの後に、意地の悪い質問が続く。
『どしたの、兄貴?』
「な、何でも、ないよ」
『まだ全部じゃないでしょ? 鷲尾サンが、朝礼で言ったこと』
「ううぅ〜」
顔が赤くなってしまう琴耶を見ているかのような、琴成の満足そうな含み笑い。恥ずかしさに言葉が喉の奥に引っ込んでしまう琴耶に、琴成はゆっくり、誘導するように質問を口にした。
『卒業できたら、何て?』
「い…………一緒に住む……って」
『ほら、やっぱり。良いじゃん、俺は反対しないよ? 俺だって、家出てる訳だし』
「う、うん……そうだよね」
そうは言っても、超現実的なことを考えてしまって琴耶はイマイチ幸せ気分に浸れないのだ。
(だってさ、急に一緒に暮らすって言ってもどこで? 僕はまだ学生だし、おにいちゃんだってバイトは鳳稜周辺でしかしてないだろうし)
『でも、なかなかやるなぁ。ホント予測不可能だよね、鷲尾サンって』
引越し後にも数回、顔を合わせている寛志を思い浮かべているのか、琴成は「うんうん」とひとりで納得している。
『鳳稜にいた時、兄貴に言われるまでノーマークだったのにさ。よくよく思い出したら、親父のデータ探ってる時に「特殊」フォルダに入ってたよ』
「何それ」
『親父のことだから、問題のある生徒と同じで分けておきたい生徒だったんじゃない?』
「むぅ……父さんも注目してたのかな」
『さぁ? あと、あの変なヤツも同じフォルダに入ってた。ほら、兄貴が街中でひっかかって俺が蹴り飛ばしたヤツ』
「……ああ、アレ……」
まさか琴成から都の話題が出るとは思わず、不必要なダメージを受けた気分になった琴耶は、げんなりと項垂れた。
『あー、ちょっと懐かしいかも』
琴成の珍しい言葉に、琴耶は顔を上げる。
『結局、引っ越ししてから、まだ一度もそっち行ってないし。伊崎、サ、ンは元気だった?』
一瞬呼び捨てようとして改まった琴成に、琴耶は久貴やはじめ、勲夫たちの話を聞かせ始めた。
気にしていない素振りだったが、はやりそれなりに気にはしていたのだろう。琴耶は、琴成からの質問に出会った人たちを思い出しながら、分かり易く答え、伝えてやった。
そして、巡り巡って二人の話題は寛志にまで戻ってくる。
「おにいちゃんのことだから……案外、忘れてるかもなーって」
『そう? 兄貴の名前覚えられたんだから、覚えてんじゃない?』
「わ、分かんない」
『あれぇ〜? あんなに積極的だったのに、いまさら消極的?』
「ちがっ、違うよ! 僕は全然知らなかったし、おにいちゃんの考えてることって、まだちょっと追いつけないと言うか」
『変なのぉ。俺には色々言ったくせにさ』
「嬉しいのは、確かなんだよ?」
『ホント?』
「本当だよ。鳳稜での出来事があってこそ、僕はおにいちゃんと付き合えているんだからね」
バイト魔の寛志を、夢中になって追いかけたあの2週間。たったの2週間だったが、今まで生きてきた中では飛び抜けて濃厚で大切な思い出ができた時間だった。
(おにいちゃんが僕のことを思い出してくれただけじゃなくて、色んな人と繋がりができたし)
一生知らないで生きることもありえる世界の住人たちが、今は普通に知り合いとして存在している。親友と呼べる相手ができたことも、琴耶には感慨無量だ。
「そういう意味では、琴成にも感謝してる」
『止めてよ兄貴。嫌味みたいで、俺が傷つくんだけど』
「ご、ごめん琴成。でも、悪気はないんだよ」
『……ふふっ、分かってるよ。俺も、兄貴には感謝してるもん!』
初めて琴成とも声を荒げるほどの喧嘩をしたが、それすらも良い経験だった。
それまでは、自分の身を呈してまで琴耶を繋ぎとめておこうとしていた琴成。その事実は琴耶を酷く憔悴させたが、あの時のわだかまりは、今の二人の間にはもう残っていない。
『兄貴、元気出して? なるようになるから、大丈夫! 特にあの人の場合、あ、ちょっと待って』
琴成の声の奥から、別の声が聞こえてきた。
(石狩先輩、戻ってきてたんだ)
いつの間に琴成が基臣のことを許したのかは不明だが、聞こえてくる会話に棘はない。
(何だかんだといつも騒ぐけど、琴成と石狩先輩って仲良いんだよね)
互いに欠けている部分を上手く補い合えているのか、周囲を巻き込んで散々こじれても元の鞘に納まるのだ。基臣は、琴成の行動に寛容で後々責めることはない。琴成も基臣に対しては、意外と寛容だと兄である琴耶は思う。
(一時はどうなるかと思ったけど……良かった良かった)
弟の成長振りに改めて喜んでいる琴耶の耳元、ガサガサとビニール袋を開ける音と、「寒かったよぉ〜」と訴える基臣の猫撫で声が響く。それを軽くあしらっていた琴成の気配に、琴耶は瞬間、突然の怒気が混じるのを感じた。
双子ならではの感覚に、ピリッと琴耶は緊張する。その途端に、携帯電話の向こう側から怒鳴り声がやってきた。
『バカぁ! これはダメって言ったじゃん! 何で買ってくんのさ?!』
ボゴッ、と鈍い音と同時に悲鳴が上がる。
『いってぇ! これしかなかったんだって。投げんなよ! 別に良いだろ、味に差なんてないんだし』
『そういう問題じゃないって言ってるだろ! もう良い、作ってやんないから。あっち行って』
『うわ、酷いぜ琴成。寒い中、買い物に行った俺の苦労は?』
『うっさいな。元はと言えばバカ臣が悪いんだろ! もう良いから、しっしっ』
『朝から放り出されて空腹の忠犬に、愛情たっぷりのクラブサンドのお恵みを〜ワンワン♪』
『なにが忠犬だ! 駄犬の間違いだろ、バカ臣犬っ』
(あー、良いなぁ。琴成が作るクラブサンド、美味しいんだよね)
食べなくなって久しい食べ物の名前に、琴耶は無条件で唾液を飲む。
(仲直りの時って、いつも作ってるのかな。クラブサンド)
基臣のマンションで暮らし始めて一番初めの大喧嘩の時、琴耶が「作ってあげたら」と言ってみたのだ。口振りからしても、基臣もずいぶん気に入っているのだろう。
『買出し行ってきただろー? 駄犬にはそんなことできないって!』
『メモ用紙があれば、駄犬でも買い物できるっ!! ってか、間違えてるじゃん!』
『何だよ、モノは間違ってないだろーがよ?』
『俺の言った物とは違うって言ってるだろ、バカ臣っ!!』
琴耶なら構わないと思っているのか、琴成と基臣の会話が筒抜けだ。
(……バカ臣って、琴成なりの愛情表現……だよね……)
いつの間にか、琴成は基臣に対して「バカ臣」と呼ぶようになっていた。きちんと「基臣」と呼べない、照れ半分愛しさ半分、というところだろうか。対する基臣も、たまに琴成のことを「なり」と呼ぶことがある。
(愛称で呼び合うのって、親密度が上がってる証拠だよね。僕はまだ、おにいちゃんだし……変えたほうが良いかな)
聞き間違えでなければ、寛志は琴耶を「琴耶」と呼んだ。その変化に合わせるのは、おかしなことではない。
(で、でも。何て呼ぶの? 鷲尾先輩……は、学校で言ってたけど、ひ、寛志って呼び捨てはダメ……ていうか無理ぃ!)
カーッ、と再び熱が昇ってくる。ひとりしかいない部屋の中で、琴耶は思わず周囲を見渡した。
(おにいちゃんのこと、おにいちゃん以外で呼ぶなんて、考えたことなかった……)
『兄貴と話してんだから、あっち行けってば!』
『え、仔猫ちゃん? どれどれ?』
『ちょ、ウザいんだけど! 触るなよ、俺が話してるんだから!!』
電話の向こうは、騒々しいが楽しそうだ。
いつになったら会話が再開できるのだろうか、と熱くなった頬に触りつつ、琴耶は耳元の騒ぎに聞き入った。
(何でかな……ちょっと、琴成が羨ましいや)
ふと、鳳稜で見た久貴とはじめの姿も思い返す。
落ち着いた雰囲気が二人の間にしっかりあって、揺らぎのない絆で結ばれている感じがした。琴耶が引っ越す前から、すでに「久貴さん」と呼んでいたはじめを思い出して、考えてみる。
(……寛志さん、とか? 僕が使ったら、ちょっと余所余所しくなっちゃう気がするなぁ)
元々が「おにいちゃん」とずいぶん近しい呼び方をしているので、いまさら「寛志さん」と言うのは不自然な気がする。
(本当に何て呼べば良いのか、分かんないよぉ〜!)
寛志の「琴耶」と呼んだ声が自動再生して、琴耶はひとり悶々とした。
琴成と基臣も、向こう側でまだまだ騒がしい。
(あぁ、良いなぁ琴成。僕もおにいちゃんのこと、愛称で呼んでみたいなぁ)
だが、肝心の愛称が思いつかないのだから仕方がない。
『あーもー、くっつくなってば! 鬱陶しいなぁ!!』
『おーい、仔猫ちゃぁ〜ん! 今度きたら3Pしよう、3ピうぉ?!』
『良〜い〜か〜らぁ〜、マヨネーズ買い直してこいバカ臣! マジで作ってやんないんだからなぁ!!』
『わひゃ、わひゃっらはら……離せって。ったく、チューブ入りの何が不満なんだ』
『お前が遊ぶからだろっ! 昨日、散々俺の身体に塗りたくって舐め回したのは誰だ、バカ!!』
仲の良い喚き合いに羨ましさと、ちょっぴり切なさまで感じたのも束の間。
琴成の発言に、琴耶は携帯電話を握り締めて叫んでいた。
「こっ、こらぁ! そういう会話は二人の秘密にしなさーいっ!」
『あ、ごめん兄貴。ほらぁ、怒られただろ! 早く行けって!!』
(うう……そんなだから、僕が耳年増になって行くんだよぉ。それに石狩先輩、カロリー摂り過ぎ……マヨラー?)
琴成と基臣のエロ会話レベルに頭痛を覚えながら、琴耶は耳元で基臣がまた出て行く音と、琴成のため息を聞いた。
『ホントごめんね? それで、何だったけ……そうそう、鷲尾サンの話』
「ん、うん」
『大丈夫だと思うよ? 逆に、何で兄貴が引いてるのか分かんないんだけど』
「え? だ、だってさ、住む場所もないのに一緒に住むって、おかしいじゃない」
『すぐに探せば? 安く泊まるトコなんていっぱいあるじゃん。何なら、ここに泊まっても良いよ?』
「そこはダメ。おにいちゃん、えっちなことすぐ覚えちゃうから、って……なっ何てこと、言ってんだ僕……っ」
『うわー兄貴からエロい発言聞いちゃった! そうか〜鷲尾サンってエロいんだ?』
「違うっ! おにいちゃんは素直なだけでっ、あと、えっと吸収が早い、あわわ、今のナシ!」
『ちゃ〜んと聞きましたよーだ。どんな吸収が早いの?』
「いやっ、だからっ、忘れて、お願いだから忘れて!」
『ど〜しよっかなぁ〜』
「琴成のイジワルー!」
『あはははっ』
それからは、琴成からの誘導尋問になった。琴耶が抵抗するも、こういうことにかけては琴成のほうがずいぶんと上手だ。あれよあれよという間に、琴耶は琴成に色々なことを吐露してしまっていた。
会話の途中で基臣が帰宅、再び喧々囂々の赤裸々タイムに突入したりと、大騒ぎではあったが琴耶にとって楽しい時間だった。
「あれ、ごめん琴成。充電が切れそう」
充電切れを予告するアラームが鳴って、琴耶は話を中断させた。
『そうなの? ちぇー。もう少し話したかったなぁ』
「またね。付き合ってくれて、ありがと」
『そんなお礼良いよ。俺も、兄貴がどんなことになってんのか分かったし?』
「こ、琴成……っ」
『兄貴ってば、やっぱり可愛いなぁ。大好きだよ? じゃ、また明日』
「うん。メールするよ」
切ろうと携帯を耳から話したタイミングで、「兄貴!」と呼ばれてまた耳元に携帯電話を戻す。
「どうしたの?」
『そろそろ鷲尾サンのこと、おにいちゃんって言うの止めてあげたら?』
「え?」
『ふふっ、じゃーね!』
含みのある笑いを残し、琴成のほうから通話を切ってしまった。
「琴成には、おにいちゃんが僕のことを名前で呼んだって……話さなかったのに」
偶然なのか勘付いたのか、こういう時、琴成が仕掛けてくるタイミングは絶妙なのだ。恥ずかしくて意識的に話さず、琴耶が今もっとも気にしている部分へ、琴成はあっさり触れてきた。しかも、ぐっさり胸に刺さる言葉もある。
(やっぱり、この年齢でおにいちゃんって言うのがダメってこと?)
琴成は、「そろそろ」と言った。色々な意味に取れるその言葉を、琴耶は難しい顔であれこれ考察してみた。
(名前で呼んだらってことかな……今言い出すってことは、おにいちゃんが卒業できたから?)
寛志への名称を変える良い頃合だとしても、スイッチを切り替えるようには上手くいかないというもの。悩んでいたことが琴耶の頭の中で肥大して、こんがらがってしまった。
「うーん……参ったぁ〜」
へなぁ、と寛志の匂いのするベッドに顔を埋める。
「おにいちゃんが、僕の居ないところで大変こと言うから、だよ」
だから心の準備もできず、寛志の言葉を嬉しさだけで前向きに捉えることもできず、現実的な心配ばかりしてしまうのだと、琴耶は口を尖らせた。
ふと、携帯電話を充電しようと顔を上げて、自分の荷物から充電アダプターを取り出す。
「おにいちゃん、電気代は後で払うからね」
コンセントを前に呟くと、琴耶はアダプターを差し込む。手元の携帯電話の充電中ランプを確認すると、帰巣本能のようにベッド脇に戻ってきて、布団に顔を埋める。
それからジッと考えて、小さくため息を吐いた。
「はぁ……おにいちゃんのせいじゃなくて、きっと僕がダメだからだよね。言いたいことが上手くまとまらなくて、おにいちゃんといるだけで嬉しくて……それだけじゃ、きっともうダメ、なんだよ、ね……?」
しっかりと干してあるのか、突っ伏した布団は心地が良い。現実から逃げたい衝動と寛志の匂いが相乗効果となって、琴耶は一気に眠りの底へ落ちて行った。
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