一般公開なだけあってか、異様に人口密度の高い卒業式になりそうだった。
親族席でも狭そうにしつらえてある中、取材者席だけはゆったりしている。
「い、良いのかな……」
「もう少し、寄ったほうが良いかな」
広い場所にちんまり腰を下ろしている琴耶とはじめは、ビクビクしながら周囲を見回した。
どう見ても、区切られたそこには琴耶たちの他5人分の席が確保できそうだ。
「おや、山吹君じゃありませんか?」
ざわめきの中でものんびりした、柔らかい声が琴耶の耳に届いた。
「お久し振りです、元気そうですね」
「笹目先生! こんにちは、お久し振りですっ」
にっこりと温和な笑みを見て、立ち上がった琴耶は思わず一礼をする。
「はい、こんにちは」
会釈を返してくれる笹目雅之、その人の後ろに、まったく隠れていないのに隠れている人物を発見した。
(あの長身、あの制服はーっ!!)
以前と違って短く艶のある黒髪姿だったが、着ている制服は間違いなく鳳凰稜都のそれだ。めくるめく悪夢が、いっせいに脳裏で再生される。
ガタン!
琴耶の驚きが、パイプ椅子を倒しそうになる。
響いた音に、はじめと勲夫が琴耶を見た。
(えーと、えーと、ここは普通に反応したほうが良いかな? でも、相手が相手だし)
一瞬にしてひとり会議開催となった琴耶の反応を見て、不思議なことに勲夫が反応する。
「大丈夫だぜ、山吹! この人、もう無害だし!」
「は、あぅ、それはヒドイよ。先輩なんだから」
「大丈夫だって、な! ガブちゃん!」
「だから、ガブちゃんって、ダメだってば」
(……仙道って、ある意味最強だよね……)
勲夫は、がはは、と笑いながら小さくなろうとしている都(←ガブちゃん?)の腕をバンバン叩いている。
雅之は穏やかに様子を見守り、はじめは年上に対する勲夫の態度を注意する。
(柳君も、あの人に慣れたのかな)
擁護する様を見るに、「侍女」と呼ばれた過去は清算しているようだ。
「あー、えっと。お元気、ですか鳳凰稜先輩」
みんなが普通にしているならば、と琴耶も頑張って声をかけてみた。
ひとりだけ無視をするのも悪いし、都は一応先輩なのだ。琴耶は自分の中でどうにも解けない警戒心を押し込めて、強張った笑みを浮かべる。
「……」
「髪の毛、スッキリしましたね」
「…………」
「そっちのほうが、似合っていますよ」
「……」
(何か反応してよ!!)
雅之の肩越しに、じーっと見つめてくる都に対して、琴耶の中でツッコミの嵐が吹き荒れる。
(無害ってこういうこと? 違うよね? 明らかに、ちょっと違うよね?!)
無反応の都に戸惑う琴耶だったが、教師である雅之の前で暴挙に出ることは躊躇われた。
(あの人に見られてるだけって、落ち着かないよぉ〜!)
唯一、琴耶がキレ易くなるといっても過言ではない人物のアクションのなさが、逆に琴耶を不安にさせるのかもしれない。しかも、自分以外はそんな都を受け入れているらしいのだ。
瞬きひとつ分の間を置いて、都は琴耶ではなく雅之の手を取った。
「……ひと時、私の行いに寛大な許しをくれないか」
「何の許しを得ようというんですか? 貴方は、貴方の思うように行動をすれば良いんですよ」
「あぁ、素晴らしい。それでこそ、我が愛しのフラん、むぅ」
都の口元に、雅之の掌が添えられる。
あくまでも穏やかに、雅之は笑顔を作った。
「私は、フランソワーズさんじゃありません。呼ぶなら、きちんと私の名前を呼んでください?」
「……雅之」
「はい」
「雅之」
「はい、雅之です」
(ちょ、んな?! はぁあー?!)
引越し間際、確かに街中で二人スポットライト状態を目撃したことはある。しかし、ここは学び舎で、しかも教える側と教えられる側の人間だ。あまりに自然体でみんな気がついていないだけなのか、それ以外に理由があるのか……。
(落ち着け、僕。元がアレでも笹目先生が良いなら、それは僕の範疇外なんだ。だから、それに関して僕が意見するのは間違ってるよね、うん……そういうことにしておこう)
ひとまず、深呼吸。
それから琴耶は、状況を「当たり前」のように見ているはじめと勲夫に視線を投げようとした。その視界の端に、一瞬動くモノが映り、何と判断する前に右手を掬い上げられる。
「おぉ、愛しきフランソワーズ! そなたの姿を再びこの両の眼に納めること叶うとは、運命の神に賛辞を贈り讃えなければならぬ幸運!!」
(えええー! 僕にだけ、変わってないのーっ!!)
片膝をつき、王子さながらのスマートさで、今にも琴耶の手の甲にキスを落とそうかとする都。
どこから取り出したのか、長い指には瑞々しい深紅のバラ。
「ああ……シルクのような艶やかな肌、白魚のような緩やかな肢体のライン、未来すらも見通してしまうかのごとき強い視線」
(うわーん、全然変わってないよ!)
よく舌を噛まないものだと思うほど、きらびやか(?)な言葉の羅列が都の口からポンポン飛び出してくる。歌い上げるように言葉を紡ぐ、自信と満足に満ちた都の上目使いが、何とも……イタイ。
「だからっ、僕だってフランソワーズじゃありません!」
「何を言うフランソワーズ! そなたは、間違いなくフランソワァーズ!!」
「違いますーっ!」
助けを求めようと周囲を見ても、なぜだか和やかな雰囲気で見守られている。
(何? 一体、何があってこうなったの?! ちょ、ああぁ、もう〜っ)
都の脳内機関はどんな働きをしているのだろうかと、疑問に思って仕方がない。
「さぁ、受け取っておくれ。私の燃える愛の証をぉ!」
「断固、絶対、何が何でもお断りしますっ!」
「な、なんと……っ! おお神よ、これは生涯守りぬくと誓ったフランソワーズを裏切った私への試練か?!」
その場に崩れ、悲劇の主人公のように身を捩る。
「胸が、胸が痛い! 心臓を茨に絡め取られたようなこの痛みは、ああっ」
ぐにぐにしている都を見下ろし、琴耶は一気に疲れを感じた。
「フランソワーズ! 聞いておくれ、フランソワーズぅ!!」
都が助けを求めた先は、雅之だ。
物凄い勢いで立ち上がり、真正面から鼻が当たるすれすれまで肉薄した都に、まったく動揺の気配を見せず、雅之は笑みを浮かべた。
「違います」
「う、ぐ……フ、ま、雅之」
「はい、何ですか? 鳳凰稜君」
「聞いて欲しいことが、あるん、だが」
「私でよろしければどうぞ」
「実は、フランソワーズがフランソワーズではないと拒み続けるのだ。フラ、ぅ、雅之は私にとってフランソワーズを凌駕する存在だと納得もできるが、フランソワーズはフランソワーズなのだ。それなのに、なぜ頑なにフランソワーズであることを拒むのだろうか」
「山吹君が、フランソワーズさんじゃないからでしょうね」
(い、一刀両断……! 笹目先生、それって天然行為ですか?!)
混乱しそうな都の言葉を、しっかり最後まで聞いてから簡潔に斬り捨てる雅之に、琴耶は思わず手に汗を握ってしまった。
その後、「琴耶=フランソワーズ」主張をする都を、飽きもせずマイペースに「琴耶≠フランソワーズ」と説く雅之の言葉の応酬が始まった。
(先生……凄い。僕だったら、とっくに我慢できないよ)
呆気に取られて見ていると、不意に雅之が腕時計を見る。
「いけない、もうこんな時間ですか。鳳凰稜君、フランソワーズさんはそれくらいにして、急いで倉庫に向かいましょう」
またしてもあっさりと怪発言をかわして、雅之は言葉を飲み込んだ都に現実を切り返す。
(て……手懐けてるって、カンジ?)
「すみません、山吹君。もう少しお話がしたかったんですが、失礼しますね」
「へっ? あ、はい。また、お手紙書きます!」
「ありがとう。会えて嬉しかったですよ。それでは」
軽く会釈をして歩き始めた雅之の後ろ、まだ何か言いたげな視線の都も歩を進め始める。
見送っていると何度も振り返る都に耐え切れず、琴耶は少ししてからすぐに着席した。
「はぁ〜。鳳凰稜先輩、どこが無害なんだよぉ」
「無害だろ? 心中持ちかけたり、毒盛ったりしなくなったんだぜ。あと、カツラもカラコンも卒業!」
お疲れさん、と付け足して、勲夫はいつの間にやら購入していた紙パックのジュースを琴耶に渡す。同じジュースをはじめにも渡して、勲夫はパイプ椅子に腰を下ろした。
「ふふ。でも山吹君が居ると、ちょっと違うね」
「まぁな、だってコイツはガブちゃんが認めるフランソワーズだから!」
「うわぁ〜、もう止めてよ。ホント、迷惑なんだからさぁ」
やはり、あの煩わしさは体験した本人でなければ分からないだろう。「フランソワーズ」は、「侍女」やら「小間使い」とはまったく違う威力を持っているのだ。
「何だかんだ、ガブちゃんの面倒は笹目センセが全部見てんだぜ。そのおかげか授業にも出てるし、部活も始めたんだ」
「部活?」
「うん。鳳凰稜先輩凄いんだよ! 乗馬がすっごく上手くて、ビックリしちゃった」
「え? 乗馬するようになったんだ」
「そうそう! 笹目センセが校外部活の申し立てをしてさ、で、ガブちゃん週一で馬に乗ってるんだぜ!」
都はとある大会で落馬して以来、乗馬から離れていると雅之に聞いたことがある。その都が、部活として乗馬を再開したらしい。
(そっか……良かった)
「あ、そろそろ始まるかな。さっさとジュース飲めよ、片付けるから!」
「じゃあ、僕が捨ててくる」
はじめが立ち上がって、手を出してきた。まずは勲夫が空になった紙パックを渡し、待たせてはいけないと思った琴耶がそれに続く。
「ありがとう、柳君」
「どういたしまして」
混み合う体育館の中に消えて行ったはじめから視線を外すと、勲夫が鼻歌交じりに一眼レフのカメラを銀色のケースから取り出していた。ずいぶんと立派なカメラをご機嫌で構え、軽くレンズを覗きながらピントを調整している。
「それ、凄いカメラだね」
「だろ? あ、でもこれは熊谷センセの私物だから触っちゃダメだぜ」
勲夫の言葉に、若干疑問を覚えた琴耶は素直に「?」と首を傾げた。
「ま、そういうこと」
にひっ、と笑った勲夫にピンとこなかった琴耶だったが、ゆっくりと勲夫と過ごした2週間を思い返して「あ!」と小さく声を上げた。
「え? ホントに?」
「まー、可哀想だし? センセーってば、アピール必死過ぎてさぁ」
苦笑しながらも、勲夫は嬉しそうだ。照れることなく、あっけらかんと告白してくれる態度が勲夫らしい。
しかし、はじめの姿を見つけた勲夫は、琴耶に向かって人差し指を自分の唇に当てた。
「うん、分かった」
「へへっ、サンキュ」
(……あとは、鳳凰稜先輩が早くフランソワーズから醒めることを祈るばかりだよ……)
都に対してだけは容赦のない琴耶の独り言は、口から出ることなく終わった。
卒業式が粛々と始まると、勲夫はせっかく熊谷猛が設けてくれた取材者席を飛び出して行ってしまった。
はじめはきちんと前を向き、式をじっと見守っている。
琴耶も最初の内は学院長の挨拶やらを聞いていたのだが、だんだんと睡魔が襲ってきた。
(いけない、眠っちゃ……ダメ、だ)
朝早くに琴成からメールがあって、彼が住んでいるマンションへ寄ったのが悪かったのかもしれない。
いわゆる高級住宅、セキュリティー万全のマンションだ。入り口に羽の生えた大きなライオンの像が置いてあって、エントランスは吹き抜け、ライトはシャンデリアで全統一という気合の入ったゴージャスさだったりする。
(何度行っても慣れないよ……僕、庶民だし……)
コクリ、と頭が揺れる。
「……山吹君?」
(琴成はあのスゴいマンションで平気なのかな……平気そうだなぁ……)
「山吹君」
(平気だから、住んでいられるのか……あ、違うかな……)
「山吹君、卒業証書の授与が始まるよ?」
(石狩先輩が一緒だからかな、あぁ、そうだよね)
「山吹君ってば」
(今日も何かと思えば、石狩先輩がオクラのサラダを食べてたって……もぅ)
だから、「ヤツとはもうキスしない」と激昂していたのだ。
琴成は昔から、糸の引く食べ物が苦手だ。山芋系はまだ口にするが、納豆とオクラは絶対に食べようとしない。
(僕も納豆はダメだけど……琴成の拒絶は、壮絶だからなぁ……)
「山吹君、もうすぐB組だよ? ねぇ」
心地の良い追憶の外側で、知った声が聞こえているが、琴耶は転寝からなかなか抜け出せずにいた。
(しかもさぁ、いかにも「やってましたー」って乱れた部屋に、平気で僕を呼ぶ? まぁ、良いけどさ……)
琴成のことはずっと心配だが、でもすぐに「聞いてよ兄貴!」とメールや電話、呼び出しをしてくる弟についていくのがやっとでもあったりする。安穏としているほうが性に合っている琴耶には、ずいぶんと刺激の強い不満も飛び出してくるのだ。
「…………ん、山吹く……」
(はふぅ……僕、琴成と石狩先輩のおかげでかなり、耳年増なんだけど……)
しみじみと琴成のことに思いを巡らせている夢うつつな琴耶の耳に、突然の大歓声が飛び込んできた。
「んぁ、なっ、何?!」
一気に目が覚めて、自分が完全に寝こけていたことに気がついた。
(あわわ)
口の端に、少しだけ涎が滲んでいる。
琴耶は口元を服の袖で拭きながら、パイプ椅子から慌てて腰を浮かせた。
「山吹君、寝てちゃダメだよ?」
「あ、う……ごめん」
はじめから「めっ」と、怒られて謝った琴耶は、未だに止まない歓声に体育館中を見渡す。
歓声に指笛や拍手も混じって、大きな響きになって木霊している。しかも、卒業生在校生問わず、ほとんどが立ち上がって喜びを分かち合っている状態。
「これ、何事……?」
「鷲尾先輩だよ」
「え、おにいちゃん?」
「山吹、凄いなぁ鷲尾先輩のレジェンド!」
勲夫が、興奮気味に戻ってきた。しかし、琴耶はどう反応してよいのか分からない。
「一体何をしたの?」
「なー? だから、最初に教えてやったほうが良かったんだって!」
「でも……こういうことって、他人が伝えると違う捉えかたになるかもしれない、から」
なおも食い下がるはじめを宥め、勲夫はポン、と琴耶の肩に両手を置いた。
嫌でも見つめ合ってしまう格好で、きょとんとしている琴耶に話し始める。
「ある日突然、鷲尾先輩は誓いを立てた」
「……う、うん?」
「全校生の前で、マイクを握って、ハウリングなんか気にせずに!」
「えーと、顔がだんだん近いよ仙道」
「俺の顔なんか気にすんな! この歓声を聞いて分からないか? その時、鷲尾先輩がどんなことを言ったのかっ!」
気になるが、勲夫の昂ぶった顔が近づいてくるのも気になる。
ブン屋魂に火がつくのか、こういう場面では興奮し易いらしい。
迫りくる勲夫の顔の後ろ、ちょうど舞台の方向に人影が現れた。見間違えるはずもない、寛志だ。
寛志は良く分かっていないような、嬉しいような恥ずかしいような、微妙な笑みを浮かべながら歓声に応えている。見れば、証書を渡す学院長すら手を叩いているではないか。
「こら、聞けよ」
「だって、おにいちゃんが」
「ん? あーっ、舞台に上がってるし!! 俺が行くまで上がらないって、約束がぁーっ!!」
焦ってカメラを握り、勲夫は飛び出して行ってしまった。
「次の新聞部発行の会報に、卒業式を特集記事で載せるんだって」
勲夫のフォローをするように、はじめが言う。
「柳君、おにいちゃんは何をしてこんなに有名人になっちゃったの?」
「えっ……あ、あのね、ん……えっと……」
見る間に顔を赤くしていくはじめを見て、琴耶は何となく寛志が言ってしまった言葉が想像できた。
(「おめでとー」とか「幸せになれよー」とか、聞こえるし)
「あの、ご、ごめんなさいっ」
「え?」
「僕、僕がね、変なこと言っちゃって……あぅ、う、こんなことになるとは……うぐ」
ぴょこん、と頭を下げたはじめだったが、顔を上げるとじわぁ〜と涙目になってしまった。
「大丈夫だよ。大丈夫、そんなに気にすることじゃないよ」
「でもぉ」
「だって、みんなおにいちゃんの卒業を喜んでるんだから」
「山吹君……」
「何て言うかな……これがブーイングだったら、柳君が負目を感じてもおかしくないし反省しなくちゃいけないと思う。だけど、喜んで送り出そうとしてくれていることの要因を柳君が作ったのなら、僕はありがとうって言わなくちゃ」
琴耶は持ち前のポジティブさで、歓声の意味を汲み取り、はじめが泣いてしまわないようにと笑顔を作る。
「ね? 平気だよ」
「山吹君って、本当に優しいよね……ありがとう。あのね、僕、ちょっと怖かったんだ」
浮かんだ涙を拭き、静かに座って、はじめは舞台のほうへ顔を向けた。
琴耶も着席して前を向き、ようやく歓声が止んで着席する音が静まった中、学院長の前まで移動した寛志の背中を見つめる。
読み上げが終わり、学院長から「こうして、こう手を出して」と指導されながら証書を受け取る寛志。
「目標を作れば良いって、言ったの」
「え?」
舞台を降りるまで、学院長の世話になる様を見守っていた琴耶に、はじめは声をかけた。ずいぶんと硬い声だ。
「久貴さんと勉強してる鷲尾先輩に、僕が言ったの。鷲尾先輩って目標があれば、凄い力が出せる人だと思ったから……でも、少し大きく捉えちゃったみたいで」
一言一言が慎重で、琴耶も身構えてしまう。
リラックスしてもらおうと視線を合わせようにも、はじめは気が遠くなりそうになりながらも己を叱咤しているのか、顔色すら悪くしている。
「物凄い意気込みだったから、心配だったんだけど、久貴さんが「あれくらいで丁度良い」って。次の日の月曜日に、鷲尾先輩が朝礼ジャックして、大騒動になったんだ」
「どんなことを言ったの?」
「卒業できなかったら、琴ちゃんにもう会わない。卒業できたら、琴ちゃんにもっと幸せになってもらうために一緒に暮らしたい」
「ふ、へ…………へ、へえぇ? え? ウソ、それって……うーん、えーと、僕……っ」
学年上位の成績を誇るはじめのことだ。寛志が言ったのだろう言葉を、一字一句間違えるはずがない。
琴耶はカーッと体中に熱が巡る感じを覚え、さらには自分の心臓の音で周囲の声が聞き取り難くなってきた。反射的に頬を手で包み、唇を噛み締める。
(どうしよう、嬉しくて……顔が緩んじゃうよぉ〜!)
「山吹君?」
「うん。大丈夫、へへ、ごめんね。話してると……えへへ、笑っちゃうんだ」
寛志が誓った言葉を反芻すると、もっとにやけ顔になってしまう。デレデレの表情になっている自覚がありつつ、琴耶は不安そうに覗き込んできたはじめに緩んだ顔を向ける。
「先輩、琴ちゃんって言ってたから、誰も山吹君のことだとは思わないだろうけど……凄く赤いよ、本当に大丈夫?」
はじめも釣られたのか、顔をまた赤くしている。
琴耶はそれ以上の言葉が続かず、頭を縦に振るだけで応えた。
(おにいちゃん、何て大それたことをっ!)
確かに、多感なお年頃の年代にはレジェンドかもしれない。
「先輩が卒業できなかったら、僕、山吹君に絶交されるんじゃないかって……でも、山吹君が嬉しそうで僕も嬉しい」
愛らしい笑みを浮かべたはじめの言葉に、舞い上がっていた琴耶は我に返った。
(はっ、そうか! おにいちゃんが卒業できなかったら、僕もう会えないところだったんだ!!)
想像して心臓が縮み上がったが、結果としてそうはならなかった。だから、琴耶は赤いままの顔を上げて、はじめに笑みを見せる。
「柳君、ありがとうね!」
卒業生が退場し、式はしばらくして終幕を迎えた。
勲夫は「編集があるから!」と、カメラを入れた銀のケースを肩から下げて校舎内に消えて行った。何となく、猛が待っているんだろうかと思いながら、琴耶ははじめに連れられて懐かしい中庭に出た。
きょろきょろと辺りを見回すはじめだが、琴耶よりも小さな体躯では捜す相手も見つからないようだ。
背伸びをしたり、小さくジャンプするはじめの姿が、琴耶から見ても可愛らしい。
(この小動物感が可愛いんだよね……頭とか、撫でても怒られないかな)
年下の弟みたいに感じて、つい、琴耶ははじめの後姿をじっと見てしまう。
(……琴成も、意外と好きだと思うなぁ。こういうタイプ)
琴耶を困らせるためにはじめに声をかけた、そう言っていた琴成だが、時々はじめとメール交換していることを知っている。
冗談っぽく聞くと「向こうが相談してくるからだよ!」と逆ギレするが、本当に鬱陶しいと思うならそんなメールは無視するはずだ。
琴耶への態度とはまったく違う対応だが、琴成も慕ってくれる相手に対しては割と世話好きが発動するんじゃなかろうかと思っている。
「あ、伊崎さぁん!」
琴耶にそんなことを思われているとは勘付いていないはじめは、大好きな久貴を自分で見つけられて嬉しそうだ。
一気にハートが飛びまくるような喜び振りに、琴耶も嬉しくなってくる。
はじめが手を振っている先を見ると、久貴がこちらへ向かってズンズン歩いてきていた。寛志を久貴の周囲に捜したが、どうやら居ないらしい。
「伊崎さん、ご卒業おめでとうございます」
「ああ」
(うわあ、伊崎先輩をナマで見るの久し振り!)
相変わらずの対応を見て、琴耶は懐かしくなってしまった。
「ん? 山吹琴耶か」
「はいっ、お久し振りです。それから、卒業おめでとうございます!」
「ああ、痛み入る」
相変わらずの態度に、琴耶はこの学院にいた数週間のことが、すっかり懐かしくなってしまった。
「伊崎さん、鷲尾先輩はどこですか?」
琴耶が、気にしているとでも思ったのだろうか。間髪入れず、はじめが久貴に寛志の所在を確認する。
「体育館を出たところで、見知らぬ連中に取り囲まれている」
「一緒に連れてきてくださいって、お願いしましたよね?」
「覚えている」
「覚えているのに、どうして連れてきてくれないんですか? 僕の言ったこと、我侭でしたか?」
「わ、分かった。連れてくるから、ここに居ろ」
眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、気まずそうに制服のネクタイを緩めた久貴は、自分の卒業証書の入った黒い筒をはじめに渡し、人ごみの中に消えて行った。
(こんな大切な物を、当たり前のように柳君に渡すんだ。柳君のほうが、言葉の押しが強いみたいだけど……ふ、二人は仲が良いんだなぁ、なんて)
それ以上のことを考えると、深夜のネタになってしまう気がして、琴耶は慌てて頭の中によぎる想像を振り切った。
想いを勇気に変えて告白をしたのは、はじめ本人。そして、はじめの勇気を受け入れたのは久貴で、彼らは仲睦まじく幸せに過ごしている……と、はじめからの幸せ一杯のメールからは読み取れる。ちょくちょく外泊をしているようだし、どこへ行ってきたんだと思うような写メールも時折送ってきてくれる。
大切そうに両手で黒い筒を抱きしめているはじめは、久貴の消えた方向を見つめていた。気がついたように視線が合うと、照れくさそうな笑顔が浮かぶ。
「ごめんね。久貴さんが傍に居ると、嬉しくなっちゃって」
「気にしないで良いよ。僕だって、おにいちゃんがいると嬉しくなるから」
他人からすれば、自分もはじめのような感じに見えるのだろうか。
琴耶は、自分が普段、寛志にどんな表情を見せているのか、いきなり気になった。
(僕、いつも変な顔とかしてないよね……してたら、どうしよう)
特にあの時、と思うと激しく動揺してしまう。
(ひ、ひゃあ〜! 考えたこと、なかった……っ)
一緒だと嬉しくて、満たされていて、夢中になってしまう。
琴耶の想像を超えた行動を取る寛志の態度が、会うたびにまだまだ新鮮だった。それを味わう至福感に陶酔していて、自分の態度なんか意識したことはない。
(は……はぅ、ううう。ダメだよ、まだお昼過ぎだよ!)
「どうしたの? 山吹君?」
急に黙ってしまった琴耶を見て、はじめは心配そうに顔を覗き込む。
「鷲尾先輩に会うから、緊張してる?」
「う……うん。まぁ……えへへ、そんなカンジ」
はじめの誤解を訂正せず、琴耶は懸命にチャンネルを変えようと努力した。
そうしている内に、久貴が寛志を連れて戻ってきた。寛志は琴耶を見つけると、穏やかな笑顔を浮かべて手を振ってくれる。
(はうぁあっ! おにいちゃん、今その顔はダメだよぉ!!)
ガチーン、と身体が硬直して、日の高い内には憚られる話題が、頭の中でぐるぐると回り始めた。
「連れてきたぞ」
「ありがとうございます、伊崎さん!」
「やぁ。えっと……」
「柳です」
「そうそう、柳君。こんにちは」
寛志は他人に対して変わらない反応で、はじめに挨拶をした。
「こんにちは、鷲尾先輩。ご卒業、おめでとうございます」
「ありがとう」
寛志の忘れっぽさにすっかり慣れているはじめに、寛志はにこやかにお礼を言う。
その二人の間に無言で割って入った久貴は、面白くなさそうな表情を浮かべている。なのに、はじめが笑うと表情が柔らかくなる。
(ほわぁー。伊崎先輩のこういう顔って、やっぱり貴重な気がするぞ)
久貴は、生まれも育ちも仁義尽くめの中、厳しく生きてきたのだと思う。そんな彼の態度は、常に己にも他人にも当たり前のように厳しかった。
(伊崎先輩、かなり変わったよね。柳君の影響かな、やっぱり)
琴耶は初めて声をかけた時の対応を思い出して、目の前の久貴と比べる。
「コイツの勉強につき合って、自分の勉学が疎かになっていないか」
「伊崎さんが一緒にお勉強してくれれば、大丈夫です」
「うむ。そうか、……」
久貴に、一瞬の躊躇いがあった。
気がついたのは琴耶だけかもしれないが、久貴は不意に手を挙げてかすかに迷った後……眼鏡のフレームに触る。
「いやあ、助かったよ。えーと、英語を教えてくれたんだっけ?」
久貴の横からにゅう、と腕を伸ばした寛志の手が、わしわしとはじめの頭を撫でた。
「んが、何をっ! はじめが、キサマに教えていたのは古典だっ! さ、触るなっ!!」
「ははは、そうだったけ。うんうん、本当にありがとうね〜」
「い、いえっ、お礼を言われるようなことは、んっ」
「だからっ、触るなと言っている!」
「あはははは〜あははは〜」
あまりに仲良くじゃれ合う寛志と久貴、そしてはじめに、ポカーンとするしかない琴耶。
(……何だろう、この疎外感……)
こうやって、いつも楽しく三人で勉強会をしていたのだろう。それは分かるが、取り残された気分に変わりない。
(しかも入り込めない……っ)
「撫でれば良いのに。ねぇ?」
「へっ?」
どうやって参加しようかと思い悩んでいた琴耶に、寛志の視線が飛んできた。その間も、はじめの頭を撫で続けている。
「あれ、触ったことない? キャンディちゃんみたいな触り心地で、気持ち良いよ」
(キャンディちゃんって、犬の名前じゃ……っ?)
寛志のバイト先に、犬の散歩代行サービスを行っているところがある。琴耶も、何度かつき合って散歩をしたものだ。確か、その中の犬の名前が「キャンディ」ではなかっただろうか。
「キャンディちゃん、今日は一段と触り心地が良いねぇ」
「鷲尾先輩、あの、僕、キャンディちゃんじゃありません」
「あれ、あ、そうだね。えっと」
「柳です」
「そうそう、柳君。うん、よしよし」
「キサマーっ! いい加減にしろっ! 触るなっ! くっ、はじめの名前を忘れるなっ!!」
いつまでもはじめに対して、嬉しそうに微笑み続ける寛志に、とうとう久貴がキレたようだ。
パチーン、とはじめの頭の上に乗っかっている手を叩き落とし、寛志の頭をがっちり掴んむとおもむろに揺さぶる。
「キサマの脳味噌は、如何様な構造になっている? 振ればまともになるか? なるのか?!」
「い、伊崎さんっ僕は平気ですから、落ち着いてください」
「そうそう。コウフンすると鼻血が出るよ?」
「キっキサマそんなことは覚えているのか?! 本当は、全部記憶しているんじゃなかろうなぁ?!」
「ははは〜」
「ええい、笑うなっ!」
(おにいちゃんと伊崎先輩のスキンシップって……激しい)
そして、二人の間で揉みくちゃになっているはじめを見て、ちょっと羨ましくなる琴耶だった。
(……ダメだ。伊崎先輩が僕を使って、おにいちゃんをおちょくるとは思えない)
琴耶は、同じようなシーンを想像してみて、ありえないという結果に肩を落とす。
「俺だ」
寛志の頭を散々振り回していた久貴だが、胸ポケットに入っている携帯の着信音に動きを止めた。冷静に電話に出る、その切り替えもまた、久貴らしい。
「そうか。すぐに向かう」
通話を終わらせ、携帯をポケットにしまった久貴は、はじめが抱きしめている卒業証書入りの筒を取り上げた。
突然のことに久貴を見上げただけのはじめの頭を、半ば勢いのように撫でる久貴。嬉しそうなはじめの顔を見下ろしながら、久貴の口元は優しく緩んでいる。実に、満足そうな表情だ。
(伊崎先輩……柳君の頭を撫でたかったのかな?)
久貴の表情を見て、琴耶はそう思った。
「行くぞ」
「はい」
「え? どこに?」
「これから、組のみなさんと、伊崎さんの卒業お祝いの旅行に出かけるんだよ」
「そうなんだ」
組って言うのは、つまりは久貴のご家族義兄弟的な面々、ということだろうか。
「それじゃあ、失礼します鷲尾先輩。山吹君、またメールするね」
「うん。旅行、楽しんできてね」
「……うんっ」
琴耶は、会釈をした久貴と手を振るはじめに笑いかけ、二人の背中を見送った。
「やれやれ、伊崎は相変わらず騒がしいなぁ」
本気で言っていると分かるから、琴耶は対応に困ってしまう。だが、寛志に弄られた勢いで久貴は控えめになってしまっているはじめへの愛情表現を出せているのかもしれない、と思うと寛志の行動に批判的な意見は出てこない。
(天然なんだろうけど……おにいちゃんって、やっぱり凄い!)
「そうだ、琴ちゃん。見て見て」
ようやく気がついたのか、寛志は自分が片手に握っていた黒い筒の蓋を開けた。出し難そうに中の紙を引っ張り出すと、それを広げて琴耶に見せる。
「俺、卒業できたよ」
「うん。おめでとう、おにいちゃん!」
「ありがとう。これもね、琴ちゃんのおかげだよ?」
「え、いや……僕は何もしてない、から」
はじめの言葉を思い出して、心臓が高鳴りを始めた。
(卒業できたら、ぼ、僕と一緒にって……でも、でもそんなのもっと早くに相談してもらわないと、えーっと)
琴耶に証書を見せて満足したのか、寛志はそれを丸めて筒の中に戻してしまう。
「おっと、いけない。FTのバイトに遅れそうだ」
「今日もバイトなの?」
「どうしてもって言われちゃってね。3時間くらいのヘルプなんだけど……琴ちゃんは、まだこっちに居る?」
「もちろん、まだ居ますっ!」
「そう、良かった。あのね、ちょっと話したいことがあるんだよ」
あまり見ない寛志の静かな表情に、琴耶は一気に緊張する。
(き……きた……っ)
ゴクリ、と喉を鳴らした琴耶へ、寛志はぱっと笑顔になる。
それからズボンのポケットをまさぐって、ひとつの鍵を琴耶に差し出した。
「俺の家で待ってて。これ、渡しておくから」
「う、うん」
広げた掌に乗る鍵と、ついでのように渡された黒い筒。
琴耶は緊張のあまり言葉を失い、ただじっと、掌の中の物を見つめているだけになってしまう。
「ちゃんと居るんだよ、琴耶」
「…………え?」
ポンポン、と頭を軽く撫でられた感覚も束の間、寛志の言葉に鍵から目を離した琴耶の視界には、もう寛志は米粒になっていた。相変わらずの華麗なスタートダッシュを見納めつつ、琴耶は鼓動が激しくなる胸にそっと手を添えた。
(聞き違い、じゃないよね。今、おにいちゃん僕のこと……!)
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